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歌梨と奥徳平
凱歌(「がいか」もしくは「かちどき」と読む)梨とは明治43年奥徳平によって商標登録された品種である。現在では二十世紀梨として扱われている。
奥徳平は父奥貞次郎、母クスの次男として、明治11年6月15日に大阪府南郡岸和田堺町(現大阪府岸和田市下野町)にて生まれた。
 
奥徳平とその家系図
奥貞次郎一家は明治19年、北海道の開発を目的に大阪府から北海道夕張へ移住した。その因縁で徳平は日本で初めての農業専門学校である札幌農学校に入学。最新のアメリカの農業技術を習得していく中で、当時、人力や牛馬の力による農業から動力機械による農業へと、発想が大きく転換される頃であった。また、農作物においても穀物、野菜を中心とした栽培から果樹栽培等も注目されはじめた時でもあった。
農業及び園芸の最新情報が集まる当時の農業専門学校に学んでいた徳平は明治21年松戸覚之助によって発見された二十世紀梨のことを誰よりもよく知っていたのではなかろうか。当時の最高学府の農学と教育を身につけた徳平は、これを実際に自らの手によって研究栽培してみたく、梨栽培の魅力に取りつかれた一人ではなかっただろうか。それを奥一家あげて計画立案されたものと思われる。
明治33年に札幌農学校を卒業した徳平は果樹栽培に適した土地を探した。果樹栽培、特に梨は、気候風土が適さない北海道よりも本州の方が適していることで土地を求めたようである。すでに北海道夕張郡角田村で払い下げを受けていた10町歩の水田を売却し、これを資本として兵庫県の山本という所も有力な候補地の一つであったが、最終的には大淀村薬水を適地とした。当時奥家の果樹園へ働きに行っていた人たちの証言によると、父貞次郎が以前、島根で鷺鉱山という鉱山を開発していた時代の人間関係のつながりがあって、大阿太高原の地に来たものである。
奥家が手に入れた土地は南葛城郡(現御所市)戸毛の小西家所有の地であった。この当時、小西家の風評には「行ったら見てこい戸毛の小西、金の土用ぼし玄関先までも」という言葉が広まり、全盛の時代があったという。この小西家の土地を斡旋したのが薬水の横澤熊太郎であるとされている。こうして奥家が薬水に約5町歩の土地を手に入れることとなった。
横澤熊太郎
このように移転先が決まり、明治35年、父の奥貞次郎、長男の容、次男の徳平、三男の義雄の四人が大淀村に来村し、梨のほかにすももや桃などを栽培する薬水園(やくすいえん)という果樹園の経営を始めた。後に貞次郎の長男容の妻に大淀村下渕俵本家より迎え、地元との関係も深めていったのである。
薬水園では明治38年ごろから白梨(パイリ)の花粉で人工交配させた梨を日露戦勝にあやかって「凱歌」という名前をつけて販売し始めた。当時、梨といえば赤梨が主流であった。そのような中、新品種の青梨の登場は各方面の人々から大変な注目を集めたようである。特に薬水園の凱歌梨は高価で売れているようだと伝え聞き、園内の状況が周辺の果樹農家にとって関心の的であったに違いない。穂木の取得経路は定かでないが、少し遅れて周辺農家が同種の梨の栽培を始め、梨の名前も始めは「凱歌」として販売したので、薬水園から再三にわたり異議申し立てをされていたようである。
その後、周辺農家は梨栽培面積を徐々に増やし、時期は定かでないが凱歌(かちどき)を勝利(かちどき)と名前を代えて出荷し始めた。これらの対応に当たったのは、薬水園に隣接して果樹栽培をしていた、西村文七、山口房吉、向出安太郎、中西栄吉らであった。
   
左から西村文七、山口房吉、向出安太郎、中西栄吉
こうして同じ佐名伝・薬水の産地内で同一の品種が異なった名前を持ち、このことが栽培、出荷等で競争をもたらし、今日の梨栽培に大きく影響したといえる。
その後、明治43年に奥徳平は「凱歌」の名を商標登録し、苗木の予約分譲を始め、分譲者以外にその名称の使用を禁じたのである。これを維持するため、薬水園では凱歌ナシの穂木が外部に出ることを警戒して、せん定した若枝は焼却し、農園の周囲には厳重な有刺鉄線を張りめぐらした。さらに接木の時期になると猛犬を放ち、とくに雨の強い日など実弾をこめた鉄砲を持って見まわり、穂木どろぼうを警戒したといわれている。このように苗木はすべて薬水園で養成して予約販売とし、正式に分譲されたもののみが「凱歌」の名称使用を許されていた。薬水園は、このような苗木の販売方法をとり、さらに梨の販売においては「日本紳士録」から、名士たちに直接梨を送り宣伝した。これにより凱歌梨の名は一躍有名になっていった。
凱歌梨が一般に出まわるようになると「なんだこれは二十世紀梨と同じではないか」との声があがってきた。それに対して奥徳平は「この品種は自分が苦心して作り出した新品種である。なのに二十世紀の苗木(穂木)を盗んだようにいわれることは心外である。むしろこの系統では二十世紀よりも先でこちらが本家である」と、二十世紀梨と凱歌梨の本家争いをめぐる訴訟を起こした。凱歌梨は二十世紀梨とは果形が異なり、とくに貯蔵輸送に耐えるものと称して異品種であることを訴えた。しかし、梨育種研究家の菊池秋雄は黒斑病に対する抵抗力が極端に弱いこと、花柱の基部に毛茸があることなどの特殊な形質が全部一致する点から推定して、凱歌梨と二十世紀梨はまったく同品種であると断定した。また、千葉高等園芸学校の三木泰治は「奥徳平の梨は自分が斡旋したものでよく知っている。千葉から二十世紀梨の穂木を取り寄せて接木しており、奈良でできたものではない。」と明言している。これにより凱歌梨は、千葉県にある二十世紀梨の原木からその系統を引いたものであり、二十世紀梨とは同一品種であると判決されたことが裁判の決着となった。
このような問題もあったが凱歌梨・勝利梨共に世に知られるようになり、軽便鉄道福神駅での駅頭販売や、中国大陸、朝鮮半島、極東ロシアなどへの輸出も行われることによって、桃が中心であった産地が梨産地として生まれ変わっていったのである。
二十世紀梨を栽培するうえで最大の問題は黒斑病であった。当時全国各地においても黒斑病が蔓延し、それに耐えうる栽培方法の研究が進められていた。大正4年、奥徳平は東京にある農商務省西ヶ原農事試験場のト蔵梅之丞を訪問し、黒斑病の甚大なる被害を訴え、防除について相談した。ト蔵は明治41年、和歌山においてミカンの腐敗防止にパラフィン袋が有効であったことを想起し、そのことを伝えた。薬水園に帰った奥徳平は凱歌梨にパラフィン袋を試用、こうして黒斑病防除に効果があることがわかり、日本で最初の新たな技術が生み出された。パラフィン袋の採用は、この佐名伝・薬水(大阿太高原)の大地から全国各地の二十世紀梨産地へと広まっていったのである。今、百年以上も二十世紀梨が栽培され続けてきたのは、奥徳平の業績が大きい。その後も徳平は土壌病害のガスくん蒸、人工交配などの技術を編み出した。
大正初めごろ薬水園には茶室が設けられていた。父の貞次郎は隠居同然となり、漢書を読み、漢詩を作り、茶の湯と製図を愉しんでいた。その頃、各地から茶人が往来するので、貞次郎は大工を連れて高松栗林公園の茶室を見に行き、それを製図して薬水園に全く同一のものを建てた。
  
薬水園の茶室、見本となったと思われる栗林公園の掬月、亭掬月亭の茶室
世に出たばかりで栽培技術が確立していなかった凱歌梨(二十世紀梨)の栽培に大きく関わった徳平であるが、甥にあたる奥佐から直接得た状況によると、徳平は胸部疾患結核の持病があり、健康にはあまり恵まれなかったという。凱歌梨が世に出まわる頃には、実務はほとんど徳平の兄であり奥佐の父である奥容が行なっていた。徳平の一面史としてこんな話がある。
徳平は少年時代農業見習のために、父の友人で、夕張角田村の村長である泉家へ牧童として住みこんでいた。そして泉家長女喜雨と兄弟のように養育され、将来は一緒になるものと自他ともに認めていた仲であったが、それは実現せず一つのロマンスとして終わったのである。
奥一家が北海道を引き上げた後、喜雨は北海道からこの吉野郡大淀村薬水の薬水園に徳平を訪れている。その時に徳平の側に親戚の女の人が来ており、喜雨はその人を奥さんと勘違いした。彼女は傷心の心をいだいて北海道へと帰り、その後櫻場家へ嫁に行った。奥佐が泉家の旧居を探し出して、喜雨の生前に直接聞いた話であるという。
大正6年、奥徳平と父の貞次郎は和歌山へ移り、その後を過ごしている。こうして徳平は生涯独身であった。二十世紀梨栽培の歴史に名を刻み昭和2年2月8日、49歳でこの世を去った。
その後、経営は奥貞次郎の長男容が行っていたが昭和 年に惜しくも亡くなった。奥容の死後、昭和3年には薬水園の所有が元日本紡績副社長の福本元之助へと変わり、生産管理人は、商科大学卒業の人、黒田元三郎となった。翌昭和4年、福本元之助が薬水園を売却し、伊藤忠が株主となり「株式会社薬水園」を設立した。戦前、戦中実際の農作業は佐名伝、薬水の農業従事者があたっていた。そして戦後の農地開放により薬水園の土地は農業従事者へと移っていった。
昭和43年11月23日明治百年を迎え、わが国の農林業の発展に顕著な業績をあげた者として、二十世紀梨発見者の松戸覚之助とともに、奥徳平に農林大臣より顕彰状が送られている。さらに、奥徳平は平成16年4月17日、二十世紀梨栽培で最も障害となる「ナシ黒斑病」に対してパラフィン紙による防除を発見された人として鳥取県知事より生前の功績に感謝状が授与された。
 
農林大臣からの顕彰状、鳥取県知事からの感謝状、片山知事から奥佐氏が代理で感謝状を受け取る
なお、昭和45年10月15日に薬水園の建物及び倉庫が全焼し、資料の多くが焼失、当時の薬水園の面影はなくなっている。 |