大淀町果樹組合・大阿太高原梨への思い/奈良県吉野郡・大阿太高原

   

   
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大阿太高原梨への思い

元吉野農業改良普及所長 中谷 健

  大阿太高原の土地は粘質な土壌で元来有機物の乏しい土地であった。今はなき古老は、「昔は雨が降れば平地は滞水し、少し日照りが続けば地面はひび割れ、収穫果実が落下すればほとんどが割れる」と語っていた。このような痩せ地に堆厩肥の投入や深耕を繰り返し行われ、今日のような肥沃な土地に変じられ、今では気象条件に恵まれた風土と粘質な土質であることが幸いしてか、生産する梨は他の産地物に比べ美味しいと消費者から評価される産地を先人は作りあげた。
  例えば日本有数の柿産地となった五條吉野の柿生産出荷組織では、他産地との産地間競争に打ち勝って市場・消費者に「美味しい柿だ」と評価される柿産地となるため、柿生産出荷組織がただひとつ決めた収穫厳守事項がある。それは「完熟柿の収穫」であった。しかし、未熟な若採り柿の収穫習慣が止まらず横行していたため、市場・消費者から奈良の柿に対しても和歌山の柿とあまり変わらない青柿(未熟柿)であるとの評価をされていた。

  大阿太高原の梨づくりの方々は個人販売の形態であったにもかかわらず、梨づくりでは先人より受け継いだ「美味しい梨づくり」を共通の暗黙の目標としていた。そのため、生産者は土づくり(有機物施用)、有機質肥料の施肥、適期適量灌水の実施、着果数の制限、完熟果実の収穫励行など、味にかかわりをもつ管理作業を、誰からも強制されることなく当時すでに励行していた。また、生産果実は各人個人販売方式で販売されていたが、生産手段・栽培技術改善取り組みなどについては、生産者組織である大淀町果樹組合が中心となっておこなっており、技術研修・先進地視察・技術導入及び展示、統一販売容器及びPRチラシの原案作成、情報の収集などにつき果樹組合員の惜しみない協力を得て進め、他の梨産地に勝る味づくり技術の更なる向上に努めた。そして、小さい梨産地ではあるが先人が作り残してくれた味が自慢の「大阿太高原梨」の伝統を守り、他の産地の追随を許さない全戸格差のない産地として、「美味しい梨づくり」に家族ぐるみ励まれていた。このことは、当時多大の感銘を受けるとともに奈良の特産である柿生産者の皆様方にも、梨づくりの皆様方のように消費者に喜ばれる味づくりをもう少し見習ってほしいものだと当時常々痛感させられていたものです。

  以上は、当時わたくしが大阿太高原梨栽培者の皆様方の行動に対し直感的に感じていたことを伝えましたが、消費者は大阿太高原梨についてはどう思っているか、過去直接体験した事例を2、3紹介したい。

  1. 昭和47年、私は高田農業改良普及所に勤めていましたが、毎年9月に高田地域の四Hクラブ員と大和高田市婦人会が共催で大和高田市の建物で農産物の直売会を開かれていた。
この年、四Hクラブ員の担当者より大淀町の梨を買ってほしいと頼まれ1箱3,700円だったと思うが40ケースを準備して渡した。翌年また頼まれたので、こちらが価格面で気を使い御所市の方で大阪中央市場に出入りしている方に頼み30ケースの鳥取の二十世紀梨を買ってもらい届け、本年は価格が安いし(1箱2,800円位だったか)色艶も良いし、クラブ員は利益も上がり喜ぶだろうと思っていたら、昼、事務所に電話が入り、幾人かのお客様に「あの梨だったらここに買いに来なくても店にいつでも幾らでも売っている。」と叱られた。昼までに12箱売れただけで、昼から昨年のように全部売れる自信が無いので、総合庁舎の皆様に幾らか買ってもらえないかとのことで、普及所は勿論、保健所・県税事務所などの庁舎を回り売れ残り2箱を持ち帰る羽目になった思い出がある。このとき果物も価格の時代は過ぎ、味の時代に移ったことを痛感させられた。

  2. 子どもが高校を終え、家を離れて下宿生活をしていたので送る荷物に大阿太高原の梨を一緒に入れて送ってやった。その子どものところへ同期の友達が訪れて来たので、この梨を一緒に食った。帰りがけ友達は「梨がまだあれば1個くれないか」と言われたのであげた。翌日学校でこの友達は出会うなり、俺の家は果物屋だが咋日食った梨はとっても美味しく感じたので、親父にも勉強のため食わしたくなり、無理を承知でもらって帰ったと言っていた。食った友達の両親は「あの梨は非常に美味しかった、近ければ世話して欲しいなあ」、おまえは、彼の親からの折角の贈り物を横取りしたのだから、一緒にタ食でも食って来いと言って、金をもらってきたとのことで、中華街の食事を初めて味わせてもらったと喜んでいたことがあった。このとき横浜の果物屋もほめる味を大阿太高原梨はもっているのだなあと考えさせられた。

  3. 昭和55年天理市で生まれ新しく登録された刀根早生柿の結実状況を見るため和歌山県落葉果樹品種検討会の一行がバスで下市町栃原に来られ、同行して来た県の果樹関係上層部の職員関係者の乗用車が帰途別行動をとって大淀の梨の見学をしたいとのことで見学と試食をして帰られた。翌日引率して来た方より見学お礼の電話があった。彼は大阿太高原の梨の美味しさについては十分知っているので県の上層部のおえら様方にも大阿太高原梨の味を知ってもらおうと案内したものと思うが、彼らは帰りの車の中で「あの梨は和歌山で言えば南部の南高梅だ」と言っていたと語ってくれた。当時(今でも)所得は別格で生産者の会議はいつもホテルで開催、四Hクラブ員は外車に乗っているなどと騒がれた梅産地である。日本の果樹王国和歌山県のトップクラスの技術者連中からそう評価されたことは、大淀梨の品質はやはり本物だとこの時は喜びを感じた。

  このように消費者の多くの方々が大阿太高原の梨は美味しいと認めてくれる味の梨を引き続き作り続けている生産者の方々の50年代の心意気はどうだったのか、体験で感動した数例を紹介したい。

  1. 完熟梨の収穫出荷を守る
   昭和55〜6年頃奈良県農業試験場の黒田果樹課長から(あと場長に)大阪の会社にお勤めの方で昨年橿原市に転居されて来た人が試験場に見えて、毎年一泊で会社の者2人が車で鳥取まで幸水梨を買いに行っていたが経費と日時を要するため奈良で幸水梨を作っている所を紹介してほしいと言われたので、私に協力願いたいとの電話を受けた。それから、収穫期に入ったので先方に連絡すると大阪より取りに来られた。用途は尋ねなかったが研究の材料にでも使うようであった。その方が中村正幸さんの庭で収穫された梨を見て、3年間毎年鳥取まで車で出向き、収穫直後の梨を買って来ていた熟度と、この梨の熟度が合わないので、もっと青い梨を売ってくれないかと頼まれた。中村さんの了解を得て梨山に行き、持参して来たカラーチャートに合わせ必要量を採果して帰られたが、完熟果実の収穫を常としている大淀の梨生産者にとっては、もう4〜5日経過しないととても収穫出来ない果色であると中村さんと話し合ったことがある。

   昭和57年前後に天候の加減からか、梨の熟期が遅れた年があった。その年の収穫時期にある家を訪ねると主人が電話中で電話の終わるのを待った。なかなかのけんまくで、まくし立てていた。電話が終わり待たせたことに気を遣ったのか電話の内容を教えてくれた。相手は通信販売を通じての長らくのお客さんであるが、「送り先は美味しい梨の送られてくるのを待ち焦がれているのに、本年はなぜまだ送ってくれないのだ。店では早くから出回っているのに」との督促の電話であったので、今年は熟期が遅れていて成熟するまでもう少し待ってほしい。私の方の産地の梨収穫は時期が来て採るのではなく、熟期が来て美味しい梨が収穫出来る時になったら収穫して出荷しています。どんな梨でもいいようでしたらお店で買って届けるか、他の産地で買って届けなさいと、時折おなじような電話がかかって来るのでそう答えている。そうするとそこまで気を使って作ってくださるのでいつも美味しい梨が頂けるのですか。それはすみませんでした。送り先には私の方から説明しておきますので今後とも宜しくとなった。弱気をだして未熟品を送るようなことをすると大阿太高原梨も自滅してしまいますよと言われ、自信のある梨を作ればここまで強気なことを言えるのだなあと思わされた。

  2. 家族ぐるみ参加で栽培技術向上
  果樹組合主催で色々な講習会や講演会などが開催されたが、普通、一般的に講習会・講演会への参加は義理参加を含め一戸一人の出席があれば上々であり、なお家に帰った出席者は会合内容などについては、いつも家族には語ることが少ないのが普通であるが、大淀町果樹組合の栽培技術の会合は、いつも家族ぐるみの参加を拒むことなく、むしろ進めていたため、複数の家人が講習や講演を受けるため誤りなき技術・知識の受け入れ普及が図られた。また、仕事上の技術理解が営農に携わる家族が同時に得られるなどプラス面が多かった。講習講演会への出席人数はいつも組合員構成人数を大きく上回り、例えば農協2階会議室で開催した梨栽培講習会では会場が満席となり、農協組合長は農協総会でも、この会場を満席にしたことが無いのに、大淀町果樹組合の梨栽培講習会開催で初めてこの会場を満席にして下さったと挨拶で喜んでおられたこともあった。

  3. 新しい技術への速やかな対応
  大阿太高原梨園開園以来、パラフィン紙使用による黒斑病防除方法の開発に始まり、国内でも早期取り組みであっただろう。生産者より消費者への直接販売法(通信販売)が梨を通じて実現するなど、この地の梨生産者は先取りした技術・手法を実現させてきた。昭和50年代においても近隣果樹産地に先駆けて省力と効率のため導入したスピードスプレヤーなどの大型機械導入使用に伴う土壌硬化による生育阻害・園地の排水不良化などが問題化したため、30代を中心とした中核農業者による展示的な意味合いも含めて事業を実施した地域農業生産対策事業取り組みの効果が動機となって、梨園の深耕・排水対策が広範囲にわたって短期間に実施され、活力ある樹勢の回復が図られた。

排水対策工事

  また高品質果実の安定生産を図るため、福島県の梨生産農家円谷正秋氏が開発した長果枝剪定法につき、生産者全体課題として果樹組合が中心となり、開発者円谷氏による剪定技術研修会の開催、長果枝剪定実施地の三重県内産地視察、後継農業者有志による円谷氏宅梨園地視察と近隣農家の意見聴取の実施などを経て、永年にわたり馴染んできた短果枝剪定法より長果枝剪定法へ多数の方が移行した。このように技術問題解決については、全体的な問題として果樹組合を中心とし短期間で問題解決がなされてきたのが大淀果樹組合の特色のようにも思えた。

  最後になりましたが、一番大切であり今後の農業の支えでもある後継者の当時の現況を振り返ると、大阿太高原に梨が植栽され今日に至るまで栽培上色々の苦難にも多々遭遇したが、先人達はこれを乗り越え「梨作り天与の地」として、ほかの梨産地では例を見ない味覚豊かな梨産地となり、全国多くの消費者より秋の収穫の到来を待ち焦がれる産地となったが、わたくしが在職した当時は如何に梨作りに天与の地と言えども、佐名伝集落には就農する若い青年後継者は無く、薬水地区では久し振りに就農した田中伸昌君のあと幾年かして中出雅則君が就農してくれた時は、金の卵をも迎える思いであったが、最近は就農して梨栽培を支えて下さる若い方々も増加したとの声を耳にし、名声ある大阿太高原の梨栽培継続発展のため、私事のように非常に嬉しく、明かりの途絶えていた暗やみに電灯の光が射したような思いです。人間生活も豊かになればなるほど贅沢を望みます。初めて食べた食品の味は終生忘れません。大阿太高原の梨は3世代いや4世代前より直販を通じた顧客がいます。今はやりの多くの直販者のように5年や10年の得意さんではありません、初めて取引したお客の親族の数は莫大です、みな得意でないとしても大阿太高原梨の味を毎年喜びとして待ち焦がれている人達を慰める意味でもみんな頑張って梨作りを続けてやって下さい。