| |
|

|
| |
|
 |
|
トップページへ |
 |
大阿太高原の紹介 |
 |
歴史年表 |
|
 |
二十世紀梨の発見と松戸覚之助 |
 |
|
奥徳平について |
|
 |
|
黒斑病との戦い |
|
 |
組合の歴史 |
|
 |
|
販売・流通の歴史 |
|
 |
技術と機械化 |
|
 |
|
品種別紹介 |
|
 |
|
大阿太高原梨が目指すもの |
|
 |
|
コラム |
|
 |
|
組合員の名簿 |
|
 |
|
関連サイトへリンク |
|
 |
|
メール |
|
|

梨栽培農家と組合の沿革
1. 佐名伝・薬水地区の園芸実行組合
1. 開墾当初の組合
明治10年、現在の御所市朝町に住んでいた小出與平治が、薬水地区を開墾し始めた。栽培の中心はモモやアンズ、ブドウ、ナシなどの果樹や山林苗木等であった。果樹の出荷の多くは地元だけではなく、愛知、滋賀、三重、遠方ロシアのウラジオストックにまで及んでいた。
その功績を讃え、大正3年当時の奈良県知事の折原巳一郎氏や出荷先の篤志寄贈者によって彰功碑が三本松付近に建立された。発起者は、地元大和桃山出荷組合と表記されているが、組合代表者名が記されておらず未だ不詳である。彰功碑は現在、町道横の町有地に移されている。
彰功碑
 
彰功碑
2.佐名伝果樹園芸出荷
大正時代に入り佐名伝果樹園芸出荷組合が結成された。配下に第一出荷組合、第二出荷組合があり、のちに第三出荷組合が組織された。
この時代に有志が四国、金毘羅神社に参拝し、その分神を佐名伝山ノ上に持ち帰り、毎年4月1日に豊作祈願のためまつりごとが行われている。
昭和5年11月1日 奈良県主催園芸博覧会に佐名伝園芸組合から二十世紀梨、水能、次郎柿を出品し感謝状を受け取る。
昭和9年に共同作業場が建設される。第一出荷組合は西村治良吉の土地に、第二出荷組合は西村勇太郎の土地に建てられるが、後年中村正一の土地に建て直す。第三出荷組合は西本長太郎の土地に建てられる。各組合とも、共同選果により、主に大阪、奈良、京都の市場に出荷されていたが、併せて個人販売も行われていた。
梨栽培は毎年順調に出荷されていたが、昭和16年に大東亜戦争が始まったため、物資、資材の不足や、出荷統制で梨が自由に売れなくなり、畑は食料増産のため一部梨の木を伐採し、いも類を植えるなどして、生産量が減少した。また、働き盛りの若者が出兵したため、労働力不足もあり、婦人や老人の力で栽培を続けていた。
戦後は農地解放などで梨栽培農家が増え、組合員も増加したため共同作業場を再建し、運営はそれぞれの組合で行っていた。第一出荷組合は西村明治の土地に、第二出荷組合は水本博の土地に、第三出荷組合は西本長治の土地に、第三班は中西数幸の土地に、薬水園は阪口勝之の土地にそれぞれ建てられた。包装紙も各組合で個別に印刷していた。
その後、個人での出荷販売に移行し、仲買人たちが電車や自動車で梨を仕入れに来るようになった。また、軒先販売が始まったのもこのころである。
 
佐名伝金毘羅さん 園芸博覧会出品での感謝状
3.薬水園芸実行
大正の時代に入り二十世紀梨も栽培面積の増加に伴い、販売面でも生産出荷組合設立の必要性を感じ「薬水園芸実行組合」が大正10年に設立された。そして共同荷造場を開墾記念碑前に建設し、六大都市に出荷され数年継続された。
その後、個々においては生産技術の改良がなされたものの生産調整や生産品の品質は不同で売上金の配当が甚だしく困難になった。そのため共同出荷場の一時休止に至るが、梨の生産は続けられていた。
大正14年には有志の組合員により吉野郡長立会いのもと、9月14日皇族への献上梨が近鉄福神駅より出荷された。
 
出荷前の記念写真 朝日新聞に掲載された献上梨
勝利梨の商標登録以後は、園芸実行組合として勝利梨ブランドで市場等へ出荷するようになり、生産・出荷資材等も共同購入されるようになった。平行して個人単位では、専属の仲買人を通じての市場出荷や通信販売、軒先販売などによって、県内外に販路を広めていった。その出荷・販売方法は現在まで続いている。昭和20年以降、市場関係者から同じ品種でありながら凱歌梨・勝利梨の名称では、消費者には混乱を招くとの申し立てが出たために、千葉県で登録されていた「二十世紀梨」の名称に統一された。
2. 大和勝利梨出荷組合の設立
奥徳平が明治43年に凱歌梨を商標登録(登録商標第40315号)し、苗木の予約分譲を始めた。しかし、分譲者以外には「凱歌」の名称使用を禁じた。このため、薬水園以外の梨栽培者は「凱歌」では販売が出来ないため、勝利(かちどき)と命名し、当地方特産梨の商標として、出願人27名で申請した。許可が下りた後は、「勝利梨商標登録協約証」(昭和2年4月25日)を作成し、「大和勝利梨出荷組合」を設立して運営にあたった。出願人の内訳は、薬水15名、佐名傅18名、東阿田1名、下渕3名であった。この組合は勝利梨の名称を共用使用する目的だけで設立された。地区内外で申請者以外の者は登録商標の使用を大和出荷組合に願い出て有料許可制をとった。また、後日作成した議定書(昭和7年8月18日)によると、新規申込者で梨の風味が悪ければ加入を拒絶することとしており品質保持にも力を入れていたようである。
勝利梨商標登録協約証は2通作成し、薬水、佐名伝の園芸実行組合がそれぞれ保管していたことからみて、従来の組合とは別に組織しており、初めての試みであったと思われる。

協約証
3. 梨狩り組合の設立
昭和34年ごろからの高度経済成長の中で、都会の人達に食べ放題をキャッチフレーズとした梨狩り園の発案が近畿日本鉄道天王寺営業局からあった。この梨狩り園(もぎ取り園)には、龍水園が指定され、これは全国で初めての試みではなかったかと思われる。数年後には付近の果樹栽培農家と共に4者(大前多生、大前安弘、田仲耕司、向出源次)で「大阿太高原梨狩り組合」を発足させる。そして、近鉄の協力を得て、京阪神方面の主要都市で大阿太高原梨をアピールするため、キャンペーンが行われた。
4. 大淀町果樹組合の設立
昭和42年より佐名伝地区、薬水地区共同により生産、販売資材の購入や新しい梨栽培技術の講習会、先進地視察活動、組合員の親睦交流を深めるため、大淀町果樹組合が設立され現在に至る。
【歴代組合長】
初代 阪本弥一郎 10代 大前多生
2代 田仲耕司 11代 中西利文
3代 中村正雄 12代 横澤 進
4代 田中 孝 13代 中西政治
5代 田中義輝 14代 米田敏雄
6代 中島喜作 15代 山口年昭
7代 山本政夫 16代 大古哲也
8代 大前安弘 17代 杉村義徳
9代 中元 昇 18代 田仲康剛
昭和50年6月29日、果樹園の開拓が始まってから百周年にあたるこの時、薬水領大平原開墾記念碑前(通称三本松)において「果樹園開墾百年祭」が、盛大に執り行われた。主催は大淀町果樹組合、後援は大淀町であった。
行事は先駆者の遺徳をしのび、果樹栽培を引き継ぐ組合員があらためて謝意を表す集いであった。開拓者小出與平治翁の子孫、小出珍則(こいでよしのり)氏と、この地の土壌に着目され二十世紀梨を始めて導入された奥徳平翁の子孫、奥佐(おくたすく)氏の臨席を願った。そして、大淀町長はじめ、県議会議員、下市警察署長、近鉄下市口駅長、佐名伝区長、薬水区長の来賓者を迎え、地元薬水、佐名伝地区生産者含め百数十名の玉串奉てんにより式典がすすめられた。大前多生副組合長から両翁の業績により、今日の大阿太高原繁栄をみることが出来た旨の記念祭を開祭する詞があげられ、つづいて、吉野町山口神社宮司高鉾宮司の祝詞が奉じられた。そして、主催者を代表して中村正雄組合長が祭文を奉じ、開拓百年記念式典の謝辞が朗読された。そして、小出珍則氏より謝辞が述べられた。
午後より近くの博水園の駐車場広場で、今日の大阿太高原の礎を築かれた小出翁、並びに奥翁の二子孫に感謝状と記念品が授与され、その後、吉本芸人や歌手等による余興があり、大阿太高原開拓百年記念と二十世紀梨導入の感謝祭が盛大に執り行われた。

開墾百年祭
祭文
ここに恭しく赤誠を、薬水領太平原開墾記念碑前に於いて記念祭を大淀町果樹組合、薬水佐名伝両区共催にて開催し、慰霊の祭典を故小出、奥両翁のご両家ご遺族のご参詣と大方諸賢のご臨席のもとに挙行せられ御碑前にぬかずき追悼の誠を捧げます。
顧みれば、両翁にはこの土地が果樹栽培に適地なるを、百年も前にご着眼せられ、幾多の困難を克服して当地の発展に寄与されたる功績は、筆舌に尽くし得ない所であります。
その先見の通り、今日の発展を成し得ましたことは、是両翁のご守護の賜りなりと、生産者一同感銘深謝している次第で御座います。両翁先見の通り、その後の状況を申し上げます。何卒宜しく御照覧下さい。
吉野郡、宇智郡にまたがっていた両区は、今や同一の大淀町となり、その後、日々に親睦の度が深まり、昭和41年両区の生産者相語らい、動力線の共同導入、完成なるや親睦会を催し、誰言おうとなく、昭和42年に大淀町果樹組合誕生の宣言がなされました。
翌昭和43年、約4千万円近い事業費をかけ畑地灌漑の完了を見るに至り、両区の共業日増しに高まり、果樹生産に対する研究共同体制実績は愈々向上に依って、昭和46年10月7日橿原体育館に於ける農民祭りに、奥田知事より立派な組合として果樹部会で団体表彰の栄誉を受賞しました。
引き続き昭和47年には農林省より全国で30ヶ所自然休養農村としての指定を受けたひとつとなり、目下鋭意その施策の立案中でありまして、その一端としてご覧の通り道路整備中であります。
茲に両区民、両翁の遺志を継ぎ、其の遺徳を偲び、益々精進して、本日、果樹百年祭を機縁として今後一層果樹生産者のみならず両区民相提技し、両区の発展に努力することを記念碑前にお誓い申し上げ祭文と致します。
合掌
昭和50年6月29日 大淀町果樹組合長 中村正雄
謝辞文
緑陰の候 貴台益々ご清祥の段大慶に存じます。
さて、この度、大阿太高原の開拓、百周年記念式典を開催されるに当たり貴職には公私多忙の中ご臨席を賜り、尚過分のご祝儀を頂戴し、ご厚情の程謹んで御礼申し上げます。
豊かな風土に恵まれた当地に、果樹を植栽され、又、二十世紀梨栽培に心血を注がれた先覚者の遺徳を偲び、更に切磋琢磨し、努力研鑽を惜しまぬ事こそ最も肝要な事と存じます。今後斯業発展の為格段のご指導ご鞭撻の程懇願申し上げます。先ずは取敢えずご臨席ご厚情哀心より御礼申し上げる次第です。向暑の折柄ご自愛専一の程お願い申し上げます。
大淀町果樹組合長 中村正雄 薬水区長 田中一夫 佐名傅区長 向出安男
小出珍則氏謝辞文
本日大淀町特産二十世紀梨百年祭を挙行されるに当たりまして一言ご挨拶申しあげます。
この式典に、私始め小出一家を始め祖先一同の霊も、感激ひとしおと思い、ご関係各位の御高配の程、哀心よりお礼申しあげます。
顧みるに明治10年開墾当時は、今日のように進歩した農耕機械もなく、労力により多くの日数を要し、この計画は余程の信念勇気決心を要したことと思います。この事業の成果は日清日露の戦役を経て、海外通商の道が開け、敦賀を経てウラジオストックに輸出されたようであります。星霜幾十年、幾多の関係者の方々の困難を克服して、当地に於ける成果をみられたことは誠に感慨深く、ご同慶に堪えません。
今後は青果の品質向上に一層努力をお願いし、国内に確固たる地位を築き、貴組合並びに其の家族のご繁栄をお祈り申し上げますと共に、曽祖父記念碑を中心として小出一家に対しましてもご厚誼を賜りますよう重ねてお願い致します。
茲に謝辞を申し述べお礼に替えさせて戴きます。
昭和50年6月29日 與平治曽孫 小出珍則
2. 果樹組合章を一般募集
大淀町果樹組合が使用する組合章を大淀町広報「広報おおよど第60号」(昭和47
年6月15日発行)で一般募集した。
応募作品は、助役、総務課長、産業課長補佐、西部農業協同組合長、佐名伝農業協
同組合長らにより慎重な審査がなされ、数多くの作品のうちから、次の方々が目出たく入賞に選ばれました。入選作品の組合章は二十世紀梨出荷用ダンボール箱のデザインに使われた。
入選 北山智啓さん 口桧垣本
佳作 東 義次さん 西増
佳作 小川博司さん 上桧垣本
佳作 木下恵子さん 新町二丁目

二十世紀梨出荷用ダンボール箱に使用されていた北山智啓さんの入選作品
現在は改められた新しいデザインで使用している。
3. 吉野魅惑体験フェスティバルに参加
「天地響命〜五感に響く時間の深さ〜」をテーマに吉野の豊かな自然と時間の深さ
にふれ、感動できる体験イベントを吉野6町村において、(平成13年6月2日から8月26日)開催された。これは、地域の魅力を最大限に活かし、交流を通じ地域の活性化と郷土愛の醸成をねらったものです。
大淀町果樹組合は次のイベントに参加した。
・ 6月9日オリジナル梨をつくろう(梨の文字入れと季節の食材体験)を大阿太高原梨園(龍水園)及び佐名伝公民館で開催。参加者は40名。スッタッフは大淀町果樹組合員と梨栽培農家の婦人で構成する梨花の会員の22名であった。
  
大淀町果樹組合が明治時代から改良を重ね、作り続けている大淀町西部地区の特産物「二十世紀梨」をPRした。直径2センチから3センチに成長した梨に千枚通しで文字や絵を描き、9月の収穫に再来してもらって、甘くて美味しい大阿太高原梨を知ってもらうイベントであった。
  
昔から地元で採れ栽培されている季節の食材を紹介するため、梨栽培農家の婦人で構成する梨花の会が日ごろから取り組んでいる自家製手作り食材を紹介した。梨の加工品としては、梨のシロップ煮、梨ジャム、梨酒、梨飴等を紹介した。
  
・ 6月17日、湯っくり歩こう 〜行者の道と大淀温泉〜 のスタート式で(近 鉄福神駅)大古哲也組合長が大阿太高原梨の紹介をし、駅前広場においては、
パネルに梨栽培の記録写真や説明文を掲示した。参加者は177名。
4. 鳥取県「鳥取県二十世紀梨導入百年記念事業」に参加(平成16年7月25日〜26日)
《参加者》
・ 大淀町長 森勝彦
・ 大淀町議会副議長 藤山量雄
・ 奈良県果樹振興センター技師 岡本一宏
・ 大淀町産業課長補佐 中谷 勤
・ JAならけん五條・吉野統括大淀経済センター課長 古谷和良
・ 大淀町果樹組合員 組合長他30名
合計36名
《参加内容》
・ 松戸市民劇団と倉吉市影絵劇団みくとの合同公演「梨の架け橋」を倉吉未来中心小ホールで鑑賞する。
……演劇趣旨……
二十世紀梨は1世紀以上経った現在も多くの方々に親しまれている。この梨の持つ不思議な魅力と苦難の歴史を「梨の架け橋」という演劇をとおして紹介している。
演劇ストーリーで登場する地域は、二十世紀梨が発見された松戸、この梨を大きく育て上げた鳥取、そして、鳥取と同じく栽培を始め、パラフィン袋の開発など、その時代では進んだ梨栽培技術を取り入れていた奈良(現在の大淀町)の3地域である。初回公演を倉吉市で7月25日にスタートし、次いで10月10日に第2回公演を松戸市で予定している。
……演劇内容……
物語の題材は、二十世紀梨が松戸市から鳥取県・奈良県に導入され、多くの災害や病気を克服し、世界の二十世紀梨といわれるようになった史事に基づいて制作されており、これに、梨の妖精というキャラクターを登場させることで、ファンタジックなストーリーが展開されている。
この脚本は松戸市において25年間活動を続けている「NPO法人・松戸市民劇団」と、鳥取県倉吉市を本拠地として活動しているアマチュア影絵劇団「みく」が合同で作成したもの。影絵と役者の共演という、夢のふくらむファンタジックに演出する舞台である。
……物語のあらすじ……
物語は梨のルーツ中国に題材をとり、松戸市、鳥取県、奈良県と、二十世紀梨の確立に貢献した土地を舞台として展開していく。玄宗皇帝と楊貴妃の愛のあかしとなった梨を二十世紀梨と想定し、その失われた梨を探しに、天の帝の遣いである妖精たちが日本にやってくる。
発見地である松戸市、そのライバルとなる奈良県、そして今日なお二十世紀梨の産地として王座を誇る鳥取県を、妖精たちが梨さがしに訪れる。
そこで見聞きしたことは、発見地である松戸市では二十世紀梨をほとんど作っていないという事実、また鳥取県でも百年経ってしまうと、先人達の苦労が伝わっていないということであった。
妖精たちは、二十世紀梨が今日のようになったのは、多くの先人たちの研究、努力の結果だということを知る。また一方では、二十世紀梨の生産も大きな曲がり角に来ていて、後継者問題や消費者の好みの変化など、これからの課題となっていることも人間達の話から聞いてしまうのである。
しかし、二十世紀梨を愛する人たちの手によって、これらの問題も克服され、これからも作られていくだろうという大きな希望のうちに、物語は大団円を迎える。
舞台は、2つの劇団の共演であることを最大限に生かし、主な場面となる鳥取県の公民館等の現実的なシーンは「松戸市民劇団」が演じ、また、中国や過去の場面は、影絵劇団「みく」が幻想的に描くことにより、ストーリーを重層的に演出している。
・ 松戸市、倉吉市の交流都市宣言、同交流会に参加する。森町長が大淀町の参加した意味をスピーチで述べる。鳥取県知事、倉吉市長、松戸市長から大淀町の参加を歓迎する内容のスピーチを受ける。会場では大淀町、大淀町果樹組合の紹介コーナーが設置されていた。
  
片山鳥取県知事 森町長のスピーチ 劇団代表の挨拶
《梨関係施設の視察》
・ 鳥取市内「二十世紀梨の親木」
・ 鳥取大学農学部大塚農場
・ 二十世紀梨記念館
・ JA農産物直売所「フロンテリア」
5. 「梨フェア」を開催する。
収穫期に入り大阿太高原梨をなるべく多くの方々に知ってもらうイベントである。
開催場所は「道の駅・大淀iセンター」多目的ホール。主催「道の駅」、協賛 大淀町果樹組合であった。
第1回 平成16年8月7日(土)から8日(日)幸水梨などの早生梨
第2回 平成16年9月4日(土)から9月5日(日)二十世紀梨、豊水梨
《イベント内容》
・ 梨の皮むき大会
・ 梨の試食と販売
・ 梨販売所の紹介(位置図を掲示)
・ 大阿太高原梨の歴史、梨の効用、梨の成長記録等を掲示
6. 梨山コンサートを開催する。
平成16年9月26日(日)に緑三園(山口隆弘)の畑で行われた。参加者213名が秋の黄昏にこころ良い音楽を聞き入ってひと時を過ごした。
《開催内容》
・ 大阿太高原梨のブランドイメージアップを図り、生産者と消費者をつなぐイベントとして企画された。開催スタッフに一般消費者も加わり実行委員会方式で行われた。
・ 演奏は前座でアマチュアバンドが出演
◇ 大淀小町(川西、寺岡、丸山) 大淀町出身
◇ 梨山兄弟(大井、渋谷) 大淀町出身
◇ ワンチ(渡辺) 下市町出身
◇ やまがたくんとさいじょうくん
(山形、西条)西吉野村出身

毎日新聞 2004.9.26
・ メインはKAJAの演奏(KAJA、たこ、マー)演奏途中雨が降り出してきたが大方の参加者は最後まで軽快なリズムに乗って楽しんだ。
・ 実行委員会のメンバー18名と当日の特別参加ボランティア約10名、計28名
のスタッフで運営された。
5. 佐名伝、薬水の古道
薬水園や周辺の果樹園では二十世紀梨の作付けを増やすことにより、雇人も増やしていった。この雇人は佐名伝、薬水の農家の人たちで、農閑期の現金収入を得ることができるため、好んで雇用されたようである。この人たちは、毎日毎日梨山に列をつくりかよった道があった。佐名伝集落からは3ルートあり、山ノ上線、芋谷線、西谷線で、主に山ノ上線を利用していたようである。朝、上り坂手前付近で待ち合わせをし、弁当を腰にいろいろな話しをしながら梨山へ働きに行っていたと聞いている。現在、これらの古道の一部は管理されてないので荒れ果ててしまっているが、その当時は管理もいきとどき、重要な幹線であったと思われる。
薬水集落からは福神駅から薬水園への道も同じような目的で利用されていた。現在は花吉野ガーデンヒルズの団地造成で無くなっているが、この道は梨の行商人たちも歩いた道であった。
 
西谷線 芋谷線
 
昭和35年、福神駅から薬水園方面への古道 山ノ上線 |