大淀町果樹組合・黒斑病とパラフィン袋/奈良県吉野郡・大阿太高原

   
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黒斑病とパラフィン袋   ※このページの最後に各レポートへのリンクがあります

 二十世紀梨栽培の歴史は、黒斑病との戦いの歴史といっても過言ではない。この病気により二十世紀梨栽培農家たちは幾度も経営の危機にさらされてきた。黒斑病は果皮に光沢のある暗黒色のへこんだ斑点となって現れる。その斑点は次第に大きくなり、やがて病斑を中心にひび割れをおこし、割れた果実は次々に落果していく。

  明治35年に奥徳平により本産地へともたらされた二十世紀梨は各農家へと広がる中、まだ名もなかったこの病気により壊滅的な被害を被った。これに対し当時、薬剤としてはボルドー液や石灰硫黄合剤が使われていた。散布は背負式ポンプというもので、ポンプ自体の重量に加え薬剤を入れたその重さは30キロにもなった。さらに、防除着を着用するとその作業は過酷な重労働であり、気温の高い夏場であれば、まさに命の切り売りであるといわれた。黒斑病防除に対しての散布回数は年間十数回にのぼりその過酷な労働に耐えかねて梨作りを断念する農家もあったという。それだけの苦労を乗り越えても黒斑病を完全に防ぎきることはできなかった。

パラフィンのミシン縫い

  また、薬剤を散布すると果面に汚点が現れるので、リンゴ、モモ、ナシなどの果実には、当時から新聞紙袋による袋掛けが行われていた。しかし肌がキメ細かくデリケートな二十世紀梨は、大きい活字がそのまま肌に焼き付けられ、梨が熟すると「殺人」や「地震」などという穏やかではない文字が浮き彫りにされたり、縞やムラがついたりすることがあったという。そのような状況を経て袋掛けによって過酷な薬剤防除の回数を減らすことができればと、農家は望み次第に袋の研究が進められるようになった。黒斑病が大発生した大正4年、薬水園の奥徳平は東京にある農商務省西ヶ原農事試験場のト蔵梅之丞を訪問し、黒斑病の甚大なる被害を訴え、防除について相談した。その経過と内容については、すでに記載した通りである。そのことにより、奥徳平は凱歌梨にパラフィン袋を試用し、黒斑病防除に効果をあげた。ここに、黒斑病防除における全国で最初の新たな技術が生み出され、二十世紀梨が日本全国で栽培が可能になったのである。

  その後も黒斑病対策のパラフィン紙技術の開発は進められたが取り組んだのは奥徳平だけではなかった。新聞紙に代わる袋として、薬水にて大前禎造が経営する梨園(現在の龍水園)では、次のような記録が残っている。

大前禎造氏と大前家の記録

  最初に考えられたのはゴム風船である。これを袋の代用として試験的に使用してみたが、果実肥大期に梨の果面にゴム風船が密着し、亀裂病に冒されてしまうという結果となった。
  そこで次に試用されたのが医薬品を包む硫酸紙である。硫酸紙を加工したものを小袋として掛け、さらに新聞紙袋を上掛けするという二重掛けをしたところ、以前より良果が得られるようになったが、それでも黒斑病を完全に防ぐことはできなかった。次にキャラメルの包装紙である蝋紙に注目する。これがパラフィン紙である。薬水園(奥徳平)より少し遅れて大正5年に試験的にパラフィン紙を被袋したところ、良い効果を得ることができた。しかし、枝の上方に着果した梨の果面が赤褐色になり、梨の外皮が日焼けする症状があらわれ、パラフィン紙はまだまだ安心して使用するには不完全であった。その日焼けは、5月にパラフィン袋を掛け、6、7月に新聞紙袋やハトロン紙袋を上掛けする間に初夏のためか、袋内部が高温になり果面が焼けることが分かった。  

  そこで業者に対策案を求めることにし、各製造業者のパラフィン袋の品質を比較したところ、大阪市東成区今里にある村岡商店のものが最良であった。大正8年12月に村岡商店の店主村岡久太郎を招き、パラフィンの原紙や蝋の原料、及び製造方法などを尋ね、自分たちの研究成果も説明して、意見を求めた。その結果、蝋には酸と油分が含まれており、それを取り除けば梨の果面の障害がなくなるのではないかという結論に至った。

当時のパラフィン袋とミシン縫いをした袋

  村岡は全国の二十世紀梨栽培家の将来を思い、最適な製品を作るため、大正9年に大前禎造の果樹園の一部を借りて研究を始めることになった。研究園では大前一家も協力してパラフィン紙袋の研究、改良を重ね、より最適な製品を完成させた。この製品は奈良県農業試験場においても使用を願い、果樹の被袋用に適合することが認められ、日本園芸雑誌(大正9年第3号)にこの技術が掲載された。その発表を受け、全国各地から栽培技術者や名士が研究園を訪れることとなった。

 このように黒斑病に対するパラフィン袋の発見による防除技術の発展は佐名伝・薬水地区の農業従事者達によって生み出した叡知の結集であるともいえる。これが全国の二十世紀梨栽培農家に多大なる利益を提供することになり、それを引き継ぐ私たちにとって大いに誇れる事実である。
今後も栽培技術に磨きをかけて産地育成に努力したいものである。



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【奈良県果樹研究会レポート 昭和40年】
今年の二十世紀梨の栽培を省みて   向出 安男


【奈良県果樹研究会レポート昭和40年】
梨黒斑病の生態と防除   辻本 昭


【因伯之果樹平成16年・10月号より】
全国農業共同組合連合会 鳥取県本部 発行  袋かけの歴史と今後  伊 澤 宏 毅


※ 掲載する資料は、奈良県果樹研究会が発行した「月ごよみ」及び「奈良県の果樹」、全国農業協同組合連合会鳥取県本部が発行した「因伯之果樹」より抜粋したものです。