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販売・流通の沿革
1.明治から大正期
明治38年ごろから、奥徳平が経営する薬水園では凱歌梨の販売を始めた。当時の出荷容器は竹篭で(三貫入り、後に二貫入りとなる)新聞紙を底に敷いて縄で結んだものだった。そして竹篭から木箱に、荷造りも山ごけからもくめんに移っていった。出荷先は東京、大阪、京都などの市場であったが、薬水園では吉野軽便鉄道の開通に目を付け、吉野への観光客を目当てに、開設された福神駅での直接販売を行った。当時、駅弁はあまり売れなかったが梨はよく売れたようである。奥家の遠戚にあたる阪口松太郎が責任者で、電車が停車すると駅弁売りの掛け声でよろしく梨を売り始めたという。この直接販売は、ただ売るだけではなく、全国から電車で吉野へ訪れる観光客に凱歌梨の存在を覚えてもらうことでもあった。それから徐々に観光客の口から口へと口コミで宣伝されていったのである。また、周辺の果樹農家も勝利梨の称号で少し遅れて販売するようになり、新たな顧客獲得に奔走していった。
大正の初めには、佐名伝、薬水地区でそれぞれの組合が設立された。そして、薬水三本松付近などに建設された共同荷造場をはじめ、何箇所かで共同選果を行い、京阪神をはじめ全国の大都市への出荷が始まった。このころ、鳥取の二十世紀梨は大阪市場で当時一箱10円前後の高値で取引されていたそうである。
また、国内市場だけではなくロシアや台湾、南方方面の外国へも輸出され、凱歌梨・勝利梨は国内外へと盛んに販売されるようになっていった。
しかし、その後、組合内で調整がとれず、共同荷造場は一時休止されることとなった。
 
国内出荷に使用していたレッテル

輸出用に使用していたレッテル
2.昭和初期
果樹栽培農家は技術向上に努力を重ねた結果、優秀な梨を栽培できるようになり、全国に凱歌梨・勝利梨の存在が認められるようになった。昭和7年に薬水地区ではふたたび共同選果荷造場が開設され、昭和8年ごろには、大阪中央市場において他府県の梨を圧倒して好評を博した。
そして、この地が幸いにも京阪神の大消費地を控え、鉄道の便も良いことから県下を始め大阪方面からも二十世紀梨を求めて行商の人たちが集まってきた。当時の梨は水菓子とも呼ばれ、一般大衆の口には中々入らなかったようで、高級料理店や高級贈答用として高値で取引されたのである。病果の梨もどんどん売れていった。このため、田舎の駅舎である福神駅や大阿太駅が普段は閑散としているのに、梨の収穫時期になると、これらの人たちでにぎわった。この人気は、二十世紀梨の珍しさもあるが、味が非常に美味しかったためだと思われる。そしてこの地は梨に適した地質であることや気象条件が二十世紀梨の特性に合っていたため、この味を作り出せたものと考える。
3.昭和中期
戦中の混乱期には梨も統制品として扱われたため、組合出荷ができず、販売は各自で行っていた。戦後は行商人の買出しや京阪神市場への出荷は、自動車が普及し利用された。
薬水園を引き継いだ果樹農家が使っていたレッテル
4.昭和後期
経済も安定して高度成長期に入り、道路事情や交通の便も飛躍的に改良され、梨の販売もより一層大衆化と広域化へと変化していった。
道路網や自動車輸送の発達により宅配便による梨の発送が可能になり、通信販売が多くなった。また、自動車の通行量が多くなってきたため、軒先の個人販売が盛んになってきた。そして、消費者ニーズの多様化により観光農園も本格化してきた。
また、梨の宣伝効果をねらい、文字入り梨を始めた。始まりは昭和59年に、奈良県において開催された「わかくさ国体」で、大淀町はサッカー会場として指定された時、全国から応援に来られる人たちに大阿太高原の梨を知ってもらおうと企画され考え出されたのが文字入り梨である。実施は佐名伝・薬水の果樹農家の有志で行うことになり一般参加者より文字入り梨作成の希望者を募った。昭和63年には奈良県においてシルクロード博が開催され、大淀町紹介の日に、大淀町果樹組合が大阿太高原の梨販売と宣伝を行った。その際、文字入り梨も出展した。後に個々の園において、お客の要望で文字入り梨のイベントが続けられ、各種の催しものに利用されており、現在では交通安全キャンペーン等に活用されている。
 
平成16年、三本松から見た観光梨園 昭和35年、大阿太駅から梨山への道
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