梨の里~佐名伝~

さなてについて

近畿地方の紀伊半島の中央に奈良県があります。 奈良県の約南半分が吉野郡という山岳地帯で、北半分が国のまほろばといわれる「大和盆地(奈良盆地)」 となっています。
わたし達の村『さなて』は、南に吉野連山をひかえ、北には大和盆地 へとひろがる「大淀町」という町の西部に位置した120戸の小さな農村地帯です。
わたし達の村『さなて』は、多くの住居家屋が吉野川流域に集まっていますがその北側後方の高度250mのところに大阿太高原が広がっていて、梨栽培には最も適した気候と土地条件を持った高原なのです。 大阿太高原で栽培された梨は日本一美味しい梨なのです。
8月から9月に収穫される梨のほとんどは個人からの注文で占められ、一般市場に出荷されることは殆どありません。 梨栽培は、明治時代から始められました。 特に、昭和3年に『二十世紀梨』の栽培が始まってから人気が高くその上戦後、輸送関係の発達につれて個人注文も増え、それに応じる形での出荷が中心となって今日に至っています。 そのようなことから『さなて』は『梨の里』で知られています。

大阿太高原について

薬水と佐名伝の両大字領にまたがる洪積層の台地は、本町のみならず本県としても珍しい平坦な台地を形成しています。地形上五条市に属する「阿太峯台地」の東部を占めるもので、佐名伝峯、薬水峯の名称でも呼ばれます。明治十年頃から開墾が始まり、桃が大半でした。今でも、関電の電柱にはモモヤマ46とか書かれてあるのはその名残でしょうか。日露戦争の戦勝とりわけ旅順の陥落を記念して「凱歌」(かちどき)の名称で登録し、「廿世紀」あるいは「勝利」という名称で市場に送り出しその当時、「勝利ならずば梨にあらず」と言われる程で風味絶佳、世の賞賛をあび、この品種は各地で栽培をみるようになりました。鳥取「廿世紀梨」もここから移植されたと言います。 この頃、勝利梨の出荷組合を組織し、東京・横浜方面から、遠くは台湾方面にまで出荷していました。今と違ってそのころは、鉄道便であり、近鉄の南大坂線「大阿太駅」からの発送でした。五条市の行政管轄であった大阿太村佐名伝ではありましたが、後に大淀町に移されます。駅名もそのまま残されて、近鉄がこの地区の梨園の観光開発にのりだすにつけて、駅名のままにこの高原を大阿太高原と名付けたのがこの高原名の由来です。

大阿太高原のあゆみ

大淀町果樹組合より2005年3月に書籍が出版されました。
100年の伝統が残る大阿太高原と梨栽培への取り組みをドキュメントした梨とその歴史をご紹介しています。

※詳しくは大淀町果樹組合にてご確認ください。